1835年
イギリスのスコットランドで誕生。
1848年
産業革命の影響で麻布の機織職人であった父親が仕事をなくし一家でアメリカに渡る。
移住後、糸巻きの製造工場で働き、書類作成が苦手だった上司から書記の仕事を任せられ、これをきっかけに夜学に通って複式簿記を習い始めた。
1850年頃
叔父に電報局の仕事を紹介してもらい、電報配達人として働き始め、独学でもモールス信号を覚え、すぐに電信技手となった。
1852年
鉄道会社の有力役員に電信技手兼補佐として引き抜かれ、その後12年間鉄道会社の社員として働く。
鉄道会社勤務時に鉄道経営について学ぶ。
1850年代後半
ある日、上司が不在の状況で脱線により汽車が全線止まってしまう事故が起こった。その時、カーネギーは独断で、上司の署名を偽造して、指令を出し事故車両をうまく回避して汽車の運行を再開させることに成功する。
これがきっかけとなり1859年に西部管区長に昇進。
1862年
当時、機関車が木造の橋を渡る際に車両から出る火花が火事を引き起こし機関車が損傷を受けるという事態が続いていた。
この事態を打開するために鉄橋会社を設立。
1865年
鉄道会社を辞める。
この頃、鉄橋会社をキーストーン陸橋会社として正式にスタートさせる。
当時、南北戦争終結の影響でアメリカの鉄道建設の景気が良かったこともありキーストーン社は大きく成長する。
1860年代後半
大型機関車の出現、交通量の増加の影響で鉄製のレールより耐久性のある鋼鉄製のレールを普及させる必要が出てくる。
そこで鉄鋼生産の事業を開始。
1870年
初の高炉(鉄鉱石から鉄を作るための設備)を建設。ベッセマー製鋼法(大量生産が可能な製鋼方法)の実用化を目指す。
この頃、会社経営において徹底的な経費削減、安価な価格設定に力を入れる。
1880年
24時間稼働を実施して200万ドルの利益を上げる。
1881年
会社を改編してカーネギーブラザーズ・アンド・カンパニーとする。
翌年、コークス製造会社を買収。
1892年
所有する会社をまとめて、カーネギー鉄鋼会社を創業。
1893年の恐慌の際には、所有財産を整理統合し最新式の技術を導入。コストが減り、収益が急増する。
1899年
アメリカの鉄鋼生産の約25%を支配する。
1901年
銀行業を営むJ. P. モルガンの出資の元、「USスチール株式会社」を設立、カーネギー製鋼会社を売却し、引退。
引退から死去するまでの18年間、自らの膨大な財産を慈善活動に使い、様々な施設、目的のために財産を寄付した。
1919年
気管支肺炎で死去。
参考文献
「アメリカン・ドリームの軌跡」H・W・ブランズ著 英治出版
参考URL
http://diamond.jp/articles/-/5386?page=2
http://money-academy.jp/andrew-carnegie/