1878年 

三人兄弟の二男だったが兄が早くに他界したため事実上、長男として育つ。

 

1883年 

小学校卒業後、東京に行き、陸軍(りくぐん)幼年(ようねん)学校(がっこう)幹部(かんぶ)候補(こうほ)を育てるために設けられた陸軍の教育機関)の試験を受けるが不合格。

 

1885年 

小学校の代用教員を経て群馬県立尋常師範学校に入った。

 

1889年 

卒業して母校の教師となる。

 

同年、兵役(へいえき)に就き高崎の隊に入る。

 

1893年 

二年間で東京(とうきょう)帝国(ていこく)大学(だいがく)文科(ぶんか)大学(だいがく)臨時(りんじ)教員(きょういん)養成所(ようせいじょ)を卒業し、沖縄中学教諭、沖縄県視学(教育の運営状況を監督管理する人)を務め、その後、東京(とうきょう)帝国(ていこく)大学(だいがく)法科(ほうか)大学(だいがく)主席(しゅせき)書記(しょき)に就任。

 

1898

学内の緑会(みどりかい)弁論部(べんろんぶ)の発表演説会が開かれたのを機に演説の模範(もはん)(基本となるもの)を示す雑誌の発行を思いつき、大日本(だいにっぽん)弁論会(べんろんかい)を設立。

 

1899年 

雑誌「雄弁」を創刊。

 

1900年 

講談社を設立し「講談倶楽部」を発刊。

 

以後、大日本雄弁会と講談社の二つの名前を併用した。

 

1925

大日本(だいにっぽん)雄弁会(ゆうべんかい)講談社(こうだんしゃ)と改称。この間に「少年倶楽部」、「面白倶楽部」、「現代」、「婦人」、「少女倶楽部」、「キング」、「幼年倶楽部」の九大雑誌を相次いで創刊(そうかん)

 

アカデミックな岩波(いわなみ)文化(ぶんか)に対応する大衆向(たいしゅうむ)講談社(こうだんしゃ)文化(ぶんか)で一時代を築いた。

 

1930年 

キングレコードを設立し、音楽分野にも進出。

 

同年、報知新聞社長にも就任。

 

1938年 

入浴中に急性狭心症により死去。

 

自らの著書に「体験を語る」、「栄えゆく道」、「私の半生」などがある。