1860

甲斐国山梨正徳寺村(現・山梨県山梨市)で農家に生まれる。

 

1877

山梨県東山梨郡の書記となる。

 

1880

20歳で上京し漢学を学んだ。

 

その後、帰省して、村議(村の議長)を皮切りに群議(群の議長)、山梨県議を経て正徳寺村長となる。

 

傍らで山林業も経営する。 

 

1882

甲州財閥の先輩、若尾逸(わかおいっ)(ぺい)の言葉に影響され、株取引に熱中。

 

莫大な利益を得る。これからは「のりもの」と「あかり」が有望であると、と教えられる。

 

1899

有信(ありのぶ)貯蓄(ちょちく)銀行(ぎんこう)を設立。

 

地方政治家に飽き足らず、若尾と同じく、故郷の先輩、雨宮(あまみや)(けい)次郎(じろう)の教えによって、実業にも興味を持つようになり、東京に進出して、若尾財閥系の実業家として活動。

 

39歳の時に経営が落ち込んでいた東京電灯の会社再建のため監査役、取締役をまかされた。

 

1905

衆院議員に当選。憲政会(けんせいかい)(大正時代~昭和時代に存在した政党)に所属し、通算四年務める。

 

このころから鉄道経営にも乗り出し、房総鉄道取締役や東京市街鉄道会社の設立などを行う。

 

1906

東武鉄道の社長に就任。経営を立て直す。(南海鉄道、東京地下鉄道、南朝鮮鉄道などの国内外の私鉄24社を支配下に入れる。)

 

節約を徹底し、借金の返済を行い、当時周囲は大反対していた40万円かかる路線を鬼怒川・日光まで伸ばすという工事を行った。

 

その結果、鬼怒川や日光といった観光地が有名になり、事業も拡大し、会社の立て直しも成功。

 

1930

その後も同じように赤字の鉄道会社を立て直すことに力を注ぎ、1940年までに嘉一郎がかかわった会社は東武鉄道(東武自動車、東武運輸、日光登山を含む)、秩父鉄道、東京地下鉄、日本観光、東京興産、日本土地証券、等数えきれないほどであった。

 

1940

死去。

 

嘉一郎の会社再建方法は規律をただすこと、無駄づかいをしない、信用の回復、資金を増やす、営業を拡大するこれらを徹底してやることだった。

 


参考文献

日外アソシエーツ[2010]『近現代起業家人名事典』日外アソシエーツ。

http://blog.goo.ne.jp/masatoshi-nakamoto/e/eff062c228d9da34dc63c3822539cba5