1901年

アメリカ、イリノイ州シカゴで誕生。

 小さい頃から絵を描くのが好きで、将来は絵描きになりたいと思っていた。

 

1910年代前半 

カンザスシティに引っ越してから両親の勧めで絵の得意な子供達のための美術学校に通う。

 ディズニーは、近所の床屋のために漫画を描いたり、地元の商店の広告を描いたりしていた。

 

1917年 

1次世界大戦でアメリカが参戦するとディズニーは赤十字に志願し、フランスで救急車の運転手をしていた。

 ここでも、ポスター描きをしていた。

 

1919年

帰国し学校には通わず、商業アートスタジオで働き始める。

 ここでは、事務用品業者のためにレターヘッドのデザインをしたり小さな会社の広告を描いたり映画館のプログラムの表紙を作ったりしていた。

 

1920年

カンザスシティ・フィルム広告社に就職。

 この会社は主に映画館で本編の前に上映される1分もののアニメーション広告を制作していた。

 この仕事を通して自分の絵がアニメーションで動くことに夢中になり、一流のアニメーターの技術を研究し、腕を磨いた。

  

1921年

フィルム広告社で働きながら自分自身で短編のオリジナル映画を作り、出来栄えに満足したディズニーは会社を辞め、ラフ・オー・グラム・フィルム社を設立。

 

1923年

会社設立後、すぐに7分ものの第1作目の制作に取り掛かる。

 しかし、事業はうまくいかず、社員も辞めていった。

 

その後、映画産業の中心地ハリウッドに拠点を移し、新たにディズニー・ブラザーズ・スタジオを設立。

 

1924年 

アリス・シリーズをはじめとする短編映画を50本以上制作。 

 名が売れ始める。

 

1926年

オズワルドというアニメーションのウサギを誕生させたが、取引先の配給業者に何人かの従業員を引き抜かれ、オズワルドの著作権も配給業者名義で取得されてしまう。

 

 これ以降、ディズニーは二度と同じ過ちを繰り返さないように自分が考え出したキャラクターは厳しく管理するようになった。

  

1928年 

新しいキャラクターにネズミを選び、ミッキーを作り出す。

 ミッキーマウスシリーズの三作目「蒸気船ウィリー」は当時新しく映画に音楽や効果音が加わったことにより、ミッキーの生き生きした姿が人気を呼ぶ。

  

1937年

三年の歳月をかけハリウッド初の長編アニメーション「白雪姫」を公開。

 この作品でアカデミー賞特別賞を受賞。

 

 その後、質の高い長編アニメを次々に作成。ディズニーの名声はゆるぎないものに。

 

1941年~ 

戦時中、映画漫画家組合によるストライキ、興行不振の影響で事業が低迷するも、戦争に貢献する映画以外は作ることができない状況で、新しい世代向けに「白雪姫」など過去の映画を再公開し、対抗。

 

1954年

戦後にテレビが普及し、ディズニーは1954年にABC放送と契約を結び、週に一度のディズニー番組がスタート。

 

その後、新番組もスタートさせ、視聴率は他社を圧倒。

 

1955年

ディズニー映画を現実の世界に出現させることを目的としてディズニーランドを開園。番組、新聞などの大々的な広告もあり大成功。

 

1966年 

新たなテーマパーク「ディズニー・ワールド」建設中、ウォルト・ディズニー死去。

 

 参考文献

「アメリカン・ドリームの軌跡」HW・ブランズ著 英治出版

参考URL

http://diamond.jp/articles/-/6089?page=4