1848年
医師の父を持ち、6歳で父を亡くし養子に出たが14歳の時に実家に戻る。
1866年
豪商(規模の大きな商売を営む商人)である銭屋五兵衛に触発され、豪農である家の養子となり、自身も商売を始める。
1870年
商売がうまくいかず、養家を追い出された。
1875年
上京し、御茶ノ水で、砂糖を入れた水を販売する、「冷やっこい屋」という商売を始める。
そこから味噌や菓子を包む竹の皮の販売、薪、炭と徐々に手を広げていく。
1876年
横浜で薪炭、石炭の販売業を開業したが、翌年、石炭の売り上げが伸びることを見越して、石炭専業に切り替える。
1878年
火災で家と財産を失うがすぐに立て直し、コークス処理(石炭を原料に炭素を主成分とした固体)を安価で買い入れ、セメント工場に売却するという商売を始める。
1886年
上に書いたような石炭販売を通じて、同社の総理、渋沢栄一の知遇を得、後援で、深沢セメント工場を借り受けて、浅野工場を創業。
また、他業種への進出も図り、盤城炭鉱を開設した。
1888年
他業種への進出の中で渋沢とともに東京瓦斯会社(のちの東京電力)を創立する。
1897年
外国航路を開拓のため、浅野回漕店を開業し、同じ故郷の銀行家、初代安田善次郎らの協力を得ることに成功。
その二年後、安田と協力し、浅野セメント合資会社(のちの日本セメント)を創立。
1898年
この30年間、外遊の際に見た欧米諸国の港湾設備の充実ぶりに心を打たれ、帰国後、東京都や神奈川県に東京湾の埋め立てを依頼する。
1908年
鶴見埋め立て組合を設立し、渋沢、安田の協力の下、すでに同じ区域内で行われていた、埋め立てを買収して、合計面積150万つぼにのぼる埋め立て計画を立てた。
周辺漁民との漁業権をめぐる交渉を行う。
1913年
埋め立ての許可がおり、鶴見埋築株式会社(現、東亜建設会社)を創設して、埋め立て事業を進めるさなか、鶴見や川崎港の地区一帯を整備し、作り上げた。
1918年
全国で手掛けた事業は石油、ガス、ビール、肥料、銀行、保険などの多くにわたり、第一次世界大戦後の大きな入用によりさらに利益を得る。
そして、関係企業の持ち株会社となる、浅野同族会社を設立し、浅野財閥を形成した。
1919年
ふるさとの富山で電源開発を進め、庄川水力電気を設立し、日本初の耐震設計を取り入れた小牧ダムを建設した。
1920年
前年から、爆薬カーリットの製造を開始し、9年日本カーリット株式会社を設立し、三年後には浅野セメントに吸収させた。
1930年
多くのいい成績をあげた浅野総一郎は1930年に死亡。
JR鶴見線の浅野駅は彼の名にちなみ、同線の終点、扇町駅も浅野家の家紋(家系、お家柄、など先祖古くから伝わる家の紋章)にちなむ。
(参考文献)
・大高利夫[2010]『日本の創業者‐近現代起業家人名事典』紀伊國屋書店。