1799年
誕生。べっこう細工師の父の技術を小さいころから見ており、その影響もあり発明に没頭する。
1807年
8歳にして開かずの硯箱(硯、筆などを収めておく箱)をつくる。べっこう細工師の父の技術を小さいころから見ており、その影響もあり発明に没頭する。
1814年
10代半ばごろにはからくり発明家として町中に名が知れていた。
家業を継がないことを決意し発明に没頭していた。
1820年
20代にはからくり興行師といて江戸、大坂などをめぐった。
からくりで多くの人を楽しませていた。
1830年
天保時代に入り各地で社会改革が行われるようになり、からくり興行も困難になってきた。
1834年
大坂に移り住み実用品の「携帯用懐中燭台」の製作と販売を行う。
夜の医療現場や夜の帳簿つけに便利であると世に広まる。
1837年
大塩平八郎の乱がおこり一面焼け野原となっても発明を辞めなかった。
いつまでも消えない灯の「無尽灯」を発明し人々の生活や商売の水準の向上に役立った。
1847年
南蛮貿易によってもたらされた西洋時計に興味を示し、西洋の天文、数理を学ぶ。
その後も発明を続け、天文の知識も身につけた久重は近江大掾(最も優れた職人のみに与えられる称号)を得る。
1850年
和時計・須弥山儀を完成させる。これは天動説に特化したもので、当時の時計の概念の根底を覆したものだった。
このころから蘭学の塾「時習堂」に入門し、医学、物理学、化学などを身につけた。
1851年
久重が持つ技術のすべてを注ぎ込んだからくり時計「万年時計」を完成させる。曜日、旧暦の日付、月の満ち欠けなど様々な時の概念を凝縮させた最高傑作とされている。
翌年「日本第一細工師」の招聘(礼を尽くして招くこと)を受け、名前が世に知れ渡る。
1853年
ペリー来航により、欧米の圧力が強まっていき、蒸気機関や、大砲などの国防技術の開発に協力するようになる。
1855年
西洋の技術を参考にし、本格蒸気船、蒸気機関車の開発に成功する。
1869年
明治時代に入り、様々な技術者が競争しながら先進する技術を研究して行ったが久重は「人の役に立つものを開発する」という昔からあるポリシーを変えずに開発に専念した。
1875年
文明開化の中心で先端技術と文化を取り込み、生まれた新技術を世に問いたいという思いから、東京の銀座で工場兼店舗を構える。これが東芝の創業。
1881年
久重、死去。
技術を身につけ常に最先端を見据え、人々を楽しませる発明をし続けた人生だった。
その後は弟子の田中大吉が意志を引き継ぎ、東京の芝浦に「田中製造所」を設立。